「書く」と「考える」
中には、熟語を多用し断定的な表現を使って書かれていても、じつは現状の問題点や事実に対する認識が誤っていて、そこから導き出された結果がテーマにそぐわない考え方になっている場合もあります。こういった文章は、自己の意見が偏っていたり、論述の展開に無理が生じて、結果的に論述が破綻してしまっている可能性があります。
一番残念なのは、事実に対する認識も正しく、様々な角度から分析されており、独自の結論を引き出せそうな視点をそなえているのに、一般的に「正しい」と考えられている内容にまとめようとして、結果的につじつまの合わない文章になってしまったものです。
最初に挙げた稚拙な文章の例は、表現が会話的だったり、自己の意見がわかりやすく表現できていなかったりという、文章表現の問題といえるでしょう。高尚な表現をする必要はありませんが、伝えたいことをはっきりと分かりやすく表現することが大切です。
こうして考えてみると、自分の意見を文章にして「書く」ということと、自分が何を問題だととらえて、どうすればよいのか「考える」という作業は別物なのだということに気付きます。論文を書く上ではこの両方を併せ持っている必要がある、ということですね。
著者 ひねもす
論述の2つの作業関連記事
- 自身の知識を再確認
- 普段、ひとりで小論文の添削をしたり講義をしたりすると、だんだんと自分の考えが指導の中に強く反映してくることがあると感じます。
- 論述の2つの作業
- 添削の作業をしているとたくさんの論文に出会います。その中で、一見すると稚拙な文章に見えるものでも、よく読んでみると立論の背景や課題に対する考え方の方向性が、あたえられたテーマに沿って深く吟味されていて驚かされることがあります。
- 指導者の喜び
- 多くの文章を読んで「申し分ない」と感じられる文章にはなかなか出会うことはありません.しかし、逆に考えれば「○○の点について、今後は××といったことに注意していけば」とアドバイスできることは、その文章を書いた人が一段階成長できるチャンスであり、今後の成長が十分期待できるということです.
- 小論文指導の難しさ
- 小論文を指導するということはとても難しいことです。自分では理解でき、作業ができたとしても、それを相手に伝えて理解を得ることはまた別物です。論文の指導に関わらず、多くの講師の方々が直面する課題といえるのではないでしょうか。
- 人と人とのコミュニケーション
- たとえば、論文を読んで、ある程度の論理的な説明ができている場合であれば、考え方の方向性や、より伝わりやすい表現にするために注意する点を指摘して改善方法を示すことで理解が得られる場合が多くなります。
- 指導のスタンス
- 先日、パソコン教室でシニア向けの指導をされている先生に、指導について注意するべき点についてお話を伺う機会がありました。
- 負うた子に教えられて浅瀬を渡る
- 子供は小さいころ「○○しようね」とか「××は、いけないことよ」などと言うと素直に聞いてくれます.それがいつのころからか「イヤ!」と反発したり「△△って、なに?」と尋ねます.自分でいざ説明しようとすると言葉につまるものです.